企業経営において利益の追求は欠かせません。
大学時代、私も経営学を学びましたが、20世紀初頭にフレデリック・ウィンズロー・テイラー(Frederick Winslow Taylor)によって提唱された管理手法、つまり科学的管理法(Scientific Management)では、労働者を「歯車」のように扱い、作業を科学的に分析し、生産性を向上させることを目的としています。このテイラーの科学的管理法に代表されるように、いかにムダを省き、効率よく生産するか。また、マーケティングや広告論では、いかに人々のニーズをリサーチし、ドラッカーの言う顧客創造を行い、消費者の心に訴求し、ヒット商品を生み出すかに注力されました。
しかし、大学卒業後、一冊の本を読んで、学生時代に学んだ経営学を根本から見つめ直さなければならないと衝撃を受けました。それは、京セラを創業した稲盛和夫氏の「生き方(サンマーク出版)」です。
まず、他人を思いやる利他の精神を持って企業経営をすること。また、経営者の本にしては道徳について書かれており、人間として何が正しいかを基に行動することが強調されていることに驚かされました。
それ以来、パナソニックを創業した松下幸之助氏も同様のことを言っており、私は常に「利益が先か、それとも他者への奉仕が大切か」という問いが頭にありました。その中で、渋沢栄一の「論語と算盤」にも影響を受けました。なぜ道徳が一流の経営者の指針となりうるのか。やはり、稲盛氏や松下氏が言っていたことも同様だったのか、と。
渋沢栄一が唱える「道徳経済合一説」、つまり道徳と経済の両立は果たして可能なのか。そのテーマは私の中で永遠のテーマでした。この度、有斐閣から「先義後利の経営―渋沢栄一が求めた経済士道(2024年)」が出版され、まさにこのテーマを扱っています。迷わず本書を手に取り、読み進めました。
まず、本書の著者、田中一弘氏の知見の広さに驚かされます。孔子、孟子、荀子といった中国古典をはじめ、松下幸之助、稲盛和夫、自動車王ヘンリー・フォード、ピーター・ドラッカーなど様々な偉人の言葉が登場します。これらの言葉は、すべて私が尊敬すべき人たちばかりです。
本書では、終始一貫して「公益第一、私利第二」、つまり「先義後利」がテーマです。この「先義後利」の典拠は、田中氏によれば「荀子」にあるといいます。つまり、道義を先に考え、利益を後にする者には栄誉があり、その栄誉ある者は順調にいく。また、反対の順序でいく者は恥辱があり、恥辱を受ける者は困窮するとあります(本書107頁)。そして本書においても、渋沢栄一にとって事業活動と利益・富の実現に不可欠なことは「公益の追求」と位置付けています。
本書の面白いところは、中国の古典をそのまま引用するだけでなく、時として孔子と稲盛や渋沢が少し異なった解釈をしていたのではないかという箇所もあることです。例えば、論語にある孔子の言葉「君子は争うところなし、必ずや射か(君子は人と争わないものだ。しいて争う場面をあげれば弓の競技ということになろうか)」という下りです。一方、渋沢や稲盛は道徳を第一としながらも争うことも重視していました。この部分は大変興味深く読みましたが、孔子の言葉が本当に弓の競技程度の争いという意味で言ったのか、さらには深層的な解釈があるのかを知りたくなりました。また、本書では孟子の言葉に対しても渋沢流の解釈が述べられていて面白いです。このように偉人たちの言葉に触れ、その言葉を解釈し、血肉として自分の行動に落とし込んでいった渋沢氏や稲盛氏は、私たちも見習うべき点が多いと感じました。
本書の最後には、聖書の「まず神の国と神の義とを求めなさい。そうすれば、これらのものはみな添えて与えられる」というイエスの言葉を紹介しています。そしてこの聖句をビジネスのあり方に結びつけたヘンリー・フォードの実業哲学が紹介されています。
このように、西洋問わず「先義後利」の考え方は、まず公共の利益を最優先し、その結果として莫大な利益を得るというものです。東洋で言えば「天」、西洋で言えば「神」というべきでしょうか。道徳心を持って人々に奉仕すること。本書は、この追求こそが最終的には自身の成功につながることを多角的に、そして多層的に分析し、位置付けています。
道徳を忘れた競争心のみで自分だけ這い上がろうとする人がなんと多いことか。また、自分だけ儲かればいいとする経営者もなんと多いことか。しかし、社会で成功するために言えることは一つ、「先義後利」を実践すること。本書を読み終えて、自分の思いが確信に変わりました。そう、理不尽なことも多々ありますが、最後には義のある人間が勝つのです。
それを信じて。また、明日も。