『道徳経』には、「粘土をこねて器を作る。そこに空洞があるから、器としての役目を果たす」とあります。
(引用)何もない空間が価値を生む AI時代の哲学、語り:オードリー・タン、著:アイリス・チュウ、文藝春秋、2022年、10
私は、新型コロナウイルス対策で一躍有名になった、台湾のIT相であるオードリー・タン関連の書籍について、今までに何冊か拝読させていただいた。しかし、今回刊行されたオードリー・タンの語りによる「何もない空間が価値を生む(文藝春秋、2022年)」は、その中でもベストといえる一冊であった。
それは、オードリー・タンが幼少の頃から培ってきた哲学を知ることができるからだ。オードリー・タンは、5歳のときに読んだ老子の「道徳経」に影響を受けている。通常、生まれてから6歳までとされる人間形成期において、オードリー・タンが老子の書籍を読みふけっていたというのも驚きである。しかし、それ以上にオードリー・タンが「道徳経」から得られた「知識」を持ち続け、現在の自身の仕事に生かしていることは、さらなる驚きであった。
この「知識」については、オードリー・タン氏も本書の中で触れている。「知識は必ず自分の創造の道のりを通して生まれたものである(本書、69)」と。知識は蓄積されるものでもなく、新しい状況に直面したときに「作られる」ものである。この一文に触れたとき、かの松下幸之助氏の言葉を思い出す。
「失敗することを恐れるよりも真剣でないことを恐れたい。」
失敗するということは、その新しい状況に対して挑戦したということだ。その挑戦によって、得られる知識は膨大であり、いつかは自分が創造した成功にたどり着く。
この書籍の良いところは、オードリー・タンの哲学と仕事の実践法がリンクしているところにある。本ブログの冒頭、私は、器の空洞について触れた。オードリー・タンによれば、「道徳経」を著した老子は、この器の空洞は一見無駄に見える。しかし、その一見無駄に思える空間感こそが価値を生み出すのであり、有用なものが生まれる(本書、10)としている。その教えをもとに、オードリー・タンは、20歳の頃、オンライン・コミュニティで一つの空間を作るなどしている。
また、本書で紹介されているオードリー・タンの読書術は、勉強になる。その読書術とは、自分に興味を持ったキーワードを絶えず理解、収集、点検を繰り返す。そして、効率化を図りながらも知識を増やし、それを実践していく。実際、自分も読書をしていて感じるのだが、読書をする際、自分に関心のある「キーワード」や心に残った文章が自分の知識になる。その効率的ともいうべき、オードリー・タンの読書術は、理にかなったものだと感じた。
さらに、本書では、会議の議長のあり方も参考になる。ビジネスの場では、会議の議長を務めることが多い。また、議長を意識して、会議の組み立てを考えることは、会議自体を意義あるものにすることができる。本書では、オードリー・タンがORID(オリッド)討論法を教えてくれる。このORIDは、会議のプロセスの頭文字をとったものだ。このORIDに従って会議を進めれば、参加者のコンセンサスが得られやすいのだろうと感じた。ぜひ、今後、自分の仕事に生かしていきたい。
そして、本書の真骨頂は、第5章「AI時代の哲学」であろう。オードリー・タンが「道徳経」の翻訳として、一番よく引用するアメリカの作家ル・グウィン氏のものを紹介している。
このル・グウィン氏の手にかかれば、老子の「道徳経」は、詩的で叙情的なものになる。読み手は、すっかり「道徳経」の世界に魅せられ、その奥深さ、謙虚さ、自分を律することの大切さ、優しさ、そして女性の強さを感じることができた。まさにトランスジェンダーとして生きるオードリー・タンに影響を与えた「道徳経」は、性別や人種を超えた、AI時代を生きる全てのビジネスマンにも通用する哲学であった。
そのほか、本書では、台湾の聖巌法師による12文字の箴言(しんげん)も紹介されている。物事を進める道理を説いた箴言は、逃げずに、困難を認め、行動したら最後に手放すといった、宇宙の力に任せるような表現で終わっている。確か、中国の「書経」には、天に代わって人間が政治を司るという言葉がある。人間は、全てやりきったあと、宇宙(天)の力に任せるように手放して委ねる。私は、オードリー・タンの哲学を通じ、壮大な宇宙に潜む無限の力、そして人間と宇宙の関係を感じざるを得なかった。
本書は、改めて、天才オードリー・タンの人間性に迫れるとともに、多くの知恵を授かる一冊であった。