チェーホフ(ロシアの劇作家)はこう言ったそうだ。
「芸術家の役割は問うことであり、答えることではない」
(引用)終止符のない人生、著者:反田恭平、発行所:株式会社幻冬舎、2022年、208
本書は、今をときめくピアニスト、反田恭平氏の自叙伝である。反田氏は、テレビの露出なども多く、クラシック音楽ファン以外にも幅広い支持を得ている。
2021年10月、反田氏は、第18回ショパン国際コンクール第2位を獲得したことも記憶に新しい。既に知名度の高い彼は、なぜ、敢えてショパン国際コンクールに挑戦したのか。なぜなら、コンクールへの挑戦は、入賞を逃すと、ピアニストとしてのダメージを負うかもしれないというリスクを負う。
そんな「反田恭平」という一人の人間としての素顔が知りたくなり、反田氏による「終止符のない人生(株式会社幻冬舎、2022年)」を拝読させていただくことにした。
本書では、冒頭からショパン国際コンクールのシーンから始まる。そこには、ショパンに出会えたという感謝の気持を持って、ステージに立つ反田氏の姿があった。サッカーが好きだった反田少年は、右手首の骨折をきっかけに、サッカー選手になる夢を断念してしまう。そして、まるで人生のシナリオが最初から描かれていたかのように、反田少年は、ピアノ道へと進むことになる。
日本音楽コンクールで1位を獲ってから、反田氏は、モスクワへ留学する。時々断水のあるモスクワ留学のエピソードは、若いからこそ乗り越えられたエピソードで綴られている。我が国のように、モスクワでは水や電気が当たり前に使えることが叶わない。極寒の異国の地においての経験は、反田氏がピアニストとしても、また人間的にも大きく成長していったのだと感じた。
本書での読みどころは、何と言ってもショパン国際コンクールについてであろう。やはり、気になることは、なぜ反田氏がハイリスクを負ってまで、ハイリターンのコンクールに挑戦したかである。
本書の中で、反田氏は、「誰もが生涯を通じて、真剣に対峙するべき大事な試練が10年に一度は訪れると僕は思っている(本書、80)」と記している。ちょうど、コンクールの時期は、反田氏が人間的に次のステージに進むべき時期と合致したということであろう。そして、亡き祖父の「人生でやり残したことがないように」といった言葉にも押され、反田氏は、ショパン国際コンクールという大舞台に果敢に挑む決意した。
面白かったのは、ショパン国際コンクールにおける反田氏の“戦略”である。審査員を飽きさせないようにするための秘策やプログラム構成は、単なる芸術家ではなく、反田氏のビジネス的センスをも感じた。
実は、私が人生で初めてクラシック音楽のCDを購入したのは、スタニスラフ・ブーニンである。1990年前半、私は、当時1万円もするブーニンのコンサートチケットを幸運にも入手でき、初めてクラシック音楽のコンサートに出向いた。そこには、1台のピアノと“弾き手”しか存在していない。しかし、圧倒的なテクニックと表現力、そして時に力強く、時に繊細なまでの音色。ブーニンの奏でるショパンの前奏曲作品28の第15番“雨だれ”では、静かに降り続く雨の音が次第に重くなり、ショパンが作曲時に抱えていた不安な心境を見事に表現していた。ブーニンのコンサート以来、私は、クラシック音楽も趣味の一つに加わった。
本書では、反田氏がショパン国際コンクールの第3次予選を通過した際、そのブーニンが反田氏にエールを送っているシーンが登場する。しかも、ブーニンのエールは、反田氏に20世紀最高のピアニストとも言われる「リヒテルの演奏を思い出した」という最高の賛辞も添えて。
また、反田氏の幼なじみであり、良きライバル的な存在のピアニスト小林愛実氏が本書にしばしば登場する。小林氏は、反田氏と同じショパン国際コンクールに出場し、第4位入賞を果たしている。本書を読むと、反田氏が幼なじみの小林氏をいかに尊敬しているかがわかる。それは、反田氏と違って、「小林さんは耳で聴いた瞬間たちまち譜面を記憶してしまう(本書、202)」という一文からも感じ取れる。そして、本書では、もう一人の天才、反田氏より一つ年上でパリのロン=ティボー=クレスパン国際コンクールで2位、エリザベート王妃国際音楽コンクールで3位に輝いた務川慧悟氏も登場する。反田氏の凄さは、他人の才能を素直に認めるところにもある。
冒頭に記した一文は、クラシック音楽にも通用する。同じ演目であっても、それぞれの演奏者の曲の解釈によって、聞き手は演奏者の“問い”を知ることになる。
だから、芸術家は、いつもその作曲者に対して、そして聴衆者に対して“問うている”のではないだろうか。この”問い“があるからこそ、クラシック音楽は、同じソナタ、同じコンチェルト、同じシンフォニーでも、私たち聴衆者をいつまでも飽きさせることなく、現代に引き継がれている。私は、芸術の真価がまさに”問い”にあるのだと気づかされた。
本書は、反田恭平という一人の素顔に迫ったものであったと同時に、クラシック音楽への理解がさらに深まるものであった。そして何より、反田氏がショパン国際コンクールに挑んだように、挑戦することへの意欲を駆り立てる一冊であった。
ここにきて、今一度、反田氏の祖父の言葉が思い起こされる。
「人生やり残したことがないように。」
そう。一人ひとりの人生が、本書のタイトルにもなっている「終止符のない人生」だということの重みをも感じさせる一冊であった。