この列島の至るところで、人々はそうやって先人達から受け継いだものを引き受けて生きてきたのでしょう。その営みが郷土の風景を守り、恵み豊かな山水をつくりあげてきたのです。無数の無名の人々の引き受ける覚悟と努力がこの列島を支えてきたと言っても過言ではありません。
(引用)日本列島回復論ーこの国で生き続けるために、著者:井上岳一、発行:2019年10月25日、発行者:佐藤隆信、発行所:株式会社新潮社、263
山水郷。何と美しい日本語の響きなのだろう。この言葉は、日本列島回復論を著された井上岳一氏の造語である。我が国の7割が山に囲まれているため、都市部や平地農村を除けば、ほとんどが山水郷と呼ぶべき場所であると井上氏は言われる(同書、101)。大学で林業を学ばれた井上氏は、我が国の抱える社会的課題について、その解を”山水の恵み”と”人の恵み”に求めた。近年、その山水郷の多くが限界集落に近くなってきたと耳にする。では、なぜいま山水郷なのだろうか。昨年出版された本書を、改めて拝読させていただくこととした。
我が国では、人口減少、高齢化、グローバル化が進む。特に井上氏は、人口減少、高齢化が経済を直撃しているとし、生活保護受給者のデータなどを用い、日本は隠れた貧困大国であると指摘する。これらの課題は、社会構造的なものとも相まって、人間関係の希薄化や若者の低所得者の増加等が根底にあることがわかってくる。なぜ人々は、都市部を中心として働く場を得ているにも関わらず、幸せを感じられなくなったのだろうか。戦後、人々は、高度成長期において、こぞって都市を目指した。用地が限られた都市空間では、建物が大型化・高層化し、人々がひしめき合って暮らしている。確かに私も昭和、平成、そして令和と生きているが、子供のころ(昭和の50年代)は、地方都市に住んでいるせいか「向こう三件両隣」の世界があった。今でこそ、防災のキーワードで「自助・共助・公助」と言われているが、子供のころには、隣に誰が住んでいるのかを勿論知っていたし、冠婚葬祭等があればムラをあげての行事となった。無論、人とのコミュニケーション不足のみが「隠れた貧困大国」の要因にはならない。しかし、都会には、人としての温かさを喪失してしまった感があることは、誰も否めないことだろう。
井上氏は、山水郷を”天賦のベーシックインカム”としている。ベーシックインカムとは、政府がすべての国民に対して最低限の生活を送るのに必要とされている額の現金を定期的に支給するという政策である。確かに、山水郷がマイナーな存在になったのは、ここ60~70年である。本書を読み進めていくうちに、私は母の実家を思い出した。母の実家は豊かな自然が残るところで、祖父は農協(現JA)に務めながら、兼業で農業を営んでいた。うちの母は、早くから運転免許を取得していたので、実家に帰ると、まだ保育園児だった私をスーパーカブの後ろに乗せて、色々と連れ回してくれた。カブで牛舎の近くを通ると、田舎臭いというか、独特の匂いがしたことを覚えている。また、実家には、隣のお兄ちゃんらと三輪車や自転車に乗って走り回った。さらに夜には、現代人の殆どが知らないであろう”五右衛門風呂”に祖父と入るのが楽しみだった。そこには、複数の収入源を持って、自給自足に近い生活をしながらも、笑いに囲まれた幸せな空間があった。人と触れ合い、山水による恵みを享受し、精神的な豊かさがあったように思う。井上氏は、古来から人々が生活を営み、この日本の原風景とも言うべき山水郷こそが、我が国を”回復”させる特効薬であると見出した。私も母の実家を思い出し、井上氏の主張に賛成するところだ。
本書では、AIやIoTに象徴される情報科学技術の進展により、その始まりの場所としても山水郷を推奨している。その後、この井上氏に著された本が出版された後に、新型コロナウイルス感染拡大に伴い、テレワークの普及などで地方移住者が増加することとなった。内閣府による「新型コロナウイルス感染症の影響下における生活意識・行動の変化に関する調査(令和2年6月21日)」によれば、年代別では20歳代、地域別では東京都23区に住む者の地方移住への関心は高まっているとある。アフターコロナの時代について、建築家の隈研吾氏が「20世紀型『大箱都市』の終焉」1)と言われているとおり、人々は、再び、地方都市や山水郷に向かいつつある。本を出版した時点で井上氏が想像していた以上に、人々が再び山水郷に移動するスピードが速まっているのではないかと思う。
事実、株式会社パソナグループは、働く人々の「真に豊かな生き方・働き方」の実現と、グループ全体のBCP対策の一環として、主に東京・千代田区の本部で行ってきた人事・財務経理・経営企画・新規事業開発・グローバル・IT/DX等の本社機能業務を、兵庫県淡路島の拠点に分散し、この9月から段階的に移転を開始していくという。その数は、グループ全体の本社機能社員約1,800名のうち、約1,200名が今後淡路島で活躍するという。2)このように、”地方への回帰”は、新型コロナや情報科学技術の進展を契機として、様々なリスク分散を鑑み、個人のみならず、大規模な事業所単位のシフトさえも加速している。
「空き家は劣化が早い」とよく言われる。それと同じように、先人たちが築き上げてきた山水郷も同様のことが言えるのではないだろうか。人工林などの手入れも含め、豊かな自然を守っていくため、人々が住み続ける必要がある。私の住む都市にも、市街地から車で1時間ほど走れば、山水郷と呼ぶべきところが残っている。私の知り合いは、その地区で空き家になりそうな一軒家を借りて、週末に暮らしている。年に数度、私もお誘いを受けて行くのだが、同じ市に暮らしているとは思えないほど、空気も気温も違ってくる。美味しい空気を吸いながら、ホタルが飛び交う季節には、その淡い光を楽しむ。そこを訪れるたびに思うことは、山々で囲まれ、田園風景が広がり、ゆっくりとした人間らしい暮らし方が実現できているということだ。かと言って、スマホも圏外にもならず、ネット環境も整備されていて、快適で不自由がない。不自由がないどころか、山水郷では、贅沢な、ゆっくりとした時間が流れている。
行政による山水郷対策も進む。本書にも登場する愛知県豊田市は、「山村地域在住職員」を採用している。職員として採用されれば、豊田市が平成17年度に合併した町村のうち、旭、足助、稲武、小原、下山に在住し、主に地域の観光イベントの調整やツキノワグマの生息状況の把握と被害防止対策などの任務に当たるという。3)そのほか、井上氏は、本書の中で行政の役割についても複数提案している。
20世紀は、人間と自然が共生できなかったのかもしれない。しかし、21世紀は、再び、人間と自然が共生し、古より大切にしてきた貴重な資源の享受を受けるながれになる。本書を読み、自分たちの故郷が持続可能な社会となること、そして日本列島が回復するためには、再び”自然回帰”がキーワードになるのだと認識するに至った。
(資料)
1)アフターコロナ 20世紀型「大箱都市」の終焉、建築家・隈研吾氏が語る都市の再編成、坂本曜平、日経クロステック/日経アーキテクチュア、2020.05.27配信
2)株式会社パソナグループホームページ 2020.09.01配信 ニュースリリース
3)豊田市ホームページ 山村地域在住職員採用(2021年4月採用) 募集要項