人の心にしみついた根拠のない思い込み。これが一番怖いんですね。
宮城県名取市 資料館「閖上の記憶」 語り部 渡辺成一さん
(引用)
日本経済新聞朝刊、平成31年3月11日朝刊、「春秋」欄
東日本大震災の発生から8年が経過した。
あっという間の8年だった。
しかし、被災者の方からすれば長い8年だったことだろう。
そして、今でも避難生活を余儀なくされてみえるかたも大勢いる。
本当にあの震災があって、津波があって、原発事故があったのだろうか。
8年という時が流れ、一番怖いのは、その事実が風化されていくことだろう。
風化させないために、渡辺さんのような語り部は、震災の怖さ、恐ろしさを伝承するうえで欠かせない。
東日本大震災発生当時、私も被災地支援のため、幾度となく、東日本を訪れた。
しかし、訪れることのできなかった土地が二つある。一つは福島。そしてもう一つは、閖上だ。
福島県は、当時、原発事故の関係で、立ち入りが制限されていた。
かつて研修で知り合った仲間が浪江町に住んでいた。
しかし、当時の福島の状況があまりに凄惨で、連絡も取れずにいた。
昨夏、私は、御縁をいただき、福島の地を訪れることができた。
いわき市から入り、第一原子力発電所の近くを通り、浪江町へと進んだ。
第一原子力発電所近くのバスからの車窓は、どの家の前にも厳重にグレーの大きな柵がしてあった。
自分の家なのに帰れない。
未だに復興途中であることを痛感させられた。
浪江町役場で研修仲間のことを聞いてみた。
残念ながらお会いできなかったが、彼女は、結婚して子供もいて、そして浪江町に戻ってきていた。
そのことを伺い、福島に一筋の希望の光が見えた気がした。
もう一つの場所が閖上だ。
訪れることができなかった。
いや、正確に言えば、閖上も訪れた。
つまり、閖上まで行ったのだが、その先が立ち入り禁止区域になっていて、警察官が通行止めを行っており、進むことが許されなかった。
その閖上を訪れる直前のこと。
私は、宮城県七ヶ浜町でボランティア活動をしていた。
その時に、偶然、閖上のかまぼこ工場で働いていたという女性と同じボランティアグループになった。
彼女は、東日本大震災直後、働いていた工場が流されたが、何とか自分自身も高台に逃げ込み、一命を取り留めた。
しかし、震災によって、失うものも多く、その後、彼女は、引きこもりになってしまう。
私がボランティアに参加したのは、震災発生から4か月後の夏。
ちょうどそのころ、彼女も精神的に落ち着き、自分自身を変えようとしてボランティア活動に参加したそうだ。
昨今、私たちの住む東海地方では、南海トラフ地震の発生が叫ばれている。
実際に発生すると、その被害状況は、東日本大震災より上回る可能性が高い。
何気ない日々の生活を送り、ありふれた幸せすら気づかないときがある。
しかし、大震災によって、人々の生活、そして考え方が一変する。
東日本大震災での経験は、私にそのようなことを教えてくれた。
天災は忘れたころにやってくる
もし、いま、南海トラフ地震が発生したら、
そのとき、「自分や家族だけは被災しない」と思い込んでいた自分を責めることになるだろう。
そうならないために、いま、できること。
日常の何気ない生活が送れ、自分の周りにいてくれる人たちに感謝し、大規模災害にも備える暮らしをしなければならない。
冒頭の渡辺さんのコメントを聞いて、ふと、そんなことを感じた。